『ピノッキオの冒険』を読みました。
有名なディズニーアニメの『ピノキオ』とは、かなりテーマ性や描写・設定が違うので驚きました。
Wikipedia より
『ピノッキオの冒険』(ピノッキオのぼうけん、伊: Le avventure di Pinocchio)は、イタリアの作家・カルロ・コッローディの児童文学作品。Storia di un burattino(「あやつり人形の物語」)として1881-82年、週刊雑誌Giornale per i bambini誌に連載されたものを改題し、1883年に最初の本が出版された。以来、100年以上にわたり読み継がれている著名な作品である。
驚いたというのは、例えばピノキオ誕生のいきさつ。
ディズニー版では序盤に登場するブルー・フェアリーがゼペット爺さんの願いを叶えるために、魔法によって木彫りの人形が人の言葉をしゃべる「ピノキオ」となる。一方『ピノッキオの冒険』では、大工のサクランボ親方の工房に「子供のように泣いたり笑ったりする棒っきれ」が登場。気味悪がったサクランボ親方が、それを木彫りのあやつり人形を作るための木材を分けてもらいに来たジェッペットに差し出したことでピノッキオが誕生する。
何故棒っきれが人間のように言葉を喋るようになったのか、特に説明は無い。
ディズニー版ピノキオでの重要キャラ、ブルー・フェアリーも、『ピノッキオの冒険』ではだいぶ設定が違う。
ディズニー版と違い、初登場するのは物語中盤。しかも、森の中の小さな家にいる、青い髪の幽霊の少女として、不気味キャラ的な位置づけで登場(第15章)。ところが次の16章になると「なにを隠そう、青い髪の少女は心やさしい仙女で、この森のあたりに千年以上前から住んでいたのだ」と…、何だかこじつけ感漂う仙人(フェアリー)へのジョブチェンジ設定が現れる。
この青い仙女さまは、超然とした存在だったブルー・フェアリーとは違い、薄幸の少女というキャラクターから、ピノッキオにとっての姉、母という位置づけに変化し、その距離感は様々に変わる。
このあたりの設定は、『ピノッキオの冒険』の執筆にまつわるゴタゴタや、作者のコッローディ自身がマザコンの傾向が強かったらしいですし、そういった作者のパーソナリティも大きく影響しているのかも。
ピノッキオの性格もかなりアナーキー。
やさしいジェッペットじいさんは自己を犠牲にしてピノッキオに深い愛情を注ぐものの、何度も何度も裏切られ、挙句の果てにはピノッキオへの虐待を疑われ警察に逮捕されてしまう。
さらに、ディズニー版では重要な役どころであるコオロギのジミニー・クリケットは、本作ではピノッキオに道理を説く100年以上生きている思慮深い「お話するコオロギ」として登場。しかし、
「だまれ!このくそったれのでぶコオロギ!」と、ピノッキオは叫んだ。
ピノッキオの冒険 (光文社古典新訳文庫) 第4章 より
ピノッキオにとんでもない目に合わされている。
とにかく、ピノッキオには何にもない、内面は真空と言ってもいいほど空っぽ。
何もないからとにかく目の前の状況だけで、一時の感情だけで物事を判断する。だから周りはそんなピノッキオに裏切られ、振り回され続ける。
NHKの番組『100分de名著』の解説によれば、こういった展開は、『ピノッキオの冒険』が執筆された19世紀イタリア王国独立当時の政治的、社会的要因が影響しているといいます。
「理不尽なこと、不条理がですね、こんなふうにして繰り返し繰り返しこの物語の中では描かれていきます。その混乱した状況そのものがイタリアの当時の状況。まあ、言ってみれば日常を反映しているんだというふうに言っていいんではないでしょうか。」
NHK番組 『100分de名著 コッローディ ‶ピノッキオの冒険″(1)「統一国家とあやつり人形」』イタリア文学研究者 和田忠彦氏の解説 より
西ローマ帝国の崩壊以来、近代に至るまで統一された国家が成立しなかったイタリア半島は、19世紀になり二度の独立戦争を経て1861年、ヴィットーリオ・エマヌエーレ二世による立憲君主国家イタリア王国が建国される。
カルロ・コッローディは戦争には義勇兵として参加し、イタリア独立後は、戦争後の混乱の過渡的状況の中で、国造りのための積極的な言論活動を行ったようです。
1870年代に入ると、彼は「ファンフッラ」紙を文筆活動の中心に据え、イタリアが抱える多くの問題の中でも、教皇庁が依然として大きな世俗権力をふるっていること、そして、イタリアの初等教育の不備、非常に低い識字率、子供の貧困といった若年層が抱える困難について精力的に論陣を張った。
ピノッキオの冒険 (光文社古典新訳文庫) カルロ・コッローディ (著) 大岡 玲 (翻訳) 解説より
こういった歴史の中、出版社からの依頼でコッローディは1876年、『ピノッキオの冒険』の執筆を開始。
ピノッキオの、既存概念や道徳観を破壊して回るような破天荒キャラっぷりは、当時のイタリアの世相に対するコッローディの信念としての「伝統的な教育観への皮肉な視線」、子供を巡る社会的問題への「かなり強い批判的視点」(『ピノッキオの冒険』解説より)の現れとも言えるワケですね。
しかし、その比較で考えるとディズニーアニメ版の『ピノキオ』は、歴史的文脈を踏まえずとも大きな違和感はない。誰が見ても、「ピノキオ」に欠けている「良心」を追い求めて、「愛」を見つける物語として受け入れられる。
ディズニー版は、『ピノッキオの冒険』にある政治や社会的要素を全部排除し、それを「良心」というテーマで言い換えている。
今回原作を読んではじめて分かりました。
ピノキオの行動は「時代」に対する抵抗ではなく、「良心」が欠けているからであり、コオロギのジミニ—・クリケットを「良心」を象徴する道化回し的なキャラにすることによってそのテーマを視覚的にもわかりやすくしている。
ピノキオが誘惑され、道を誤るのは世間に「良心」が無いからで、ピノキオ自身は何も知らない、より純真なキャラクターなのだという方向に表現することも可能になる。
よくここまで普遍的に、19世紀のイタリアの人以外の世界中の人にも共感できる物語にアレンジできるものだな~…と、なんだか妙に感心してしまいました。
とは言え、両作品に共通しているのはピノッキオの成長をテーマとした教養物語ということ。
ピノッキオは失敗を通じて自己を相対的に見つめ直し、だんだんと成長の段階を経て、最後は主体的に幸せを掴む。その姿は前半とのギャップもあってなんだか感動的ですらあります。
ディズニー版のピノキオは受動的で、成長の段階と言う点ではかなり描写が漠然としたところもありますが、ゼペット爺さんへの「自己犠牲」が人間の証につながる、という決定的なオチでピノキオの成長は完結する。
単純に比較すれば『ピノッキオの冒険』は前衛的で、『ピノキオ』は保守的。
まるっきり対照的でありながら両作品とも、『ピノッキオの冒険』は現代のイタリアで児童文学の定番として、「イタリアでは、読書の習慣にまったく縁遠い家庭であっても、聖書と『ピノッキオの冒険』だけは必ず家のどこかに置かれているものだ」(「ピノッキオの冒険」解説より)と言われるほど広く社会に浸透し、『ピノキオ』もまたディズニーアニメの古典的名作として世界中の子供のこころを掴んでいることは興味深い事実なのではないでしょうか。
私が読んだのは「ピノッキオの冒険」(光文社古典新訳文庫) カルロ・コッローディ (著) 大岡 玲 (翻訳)
巻末には本書の訳者でイタリア文学者の大岡 玲さんによる詳細な解説が載っています。
「ピノッキオの冒険」執筆の歴史的経緯、作者カルロ・コッローディの人となり、キリスト教的解釈から読む「ピノッキオの冒険」がよく分かります。
解説の各章タイトル |
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1 原作の世界と一般的イメージとの落差 |
2 コッローディの生涯と人間性 |
3 ジュゼッペ・アイアッツィらとの出会い |
4 イタリア統一への情熱 |
5 『ピノッキオの冒険』に至る道筋 |
6 賭博癖と母への思い |
7 『ピノッキオの冒険』に託した希求 |
8 信じることと帰依することは別 |
やや分量があります。