
つくば万博訪問記①のつづき。

ワタクシ、ケン一は、なつかしさに駆られて子供時代に訪れたつくば万博、現代の科学万博記念公園(つくば市)に2025年の春、行って来たのでした。
つくば科学万博’85について
正式名称 | 国際科学技術博覧会 (International Exposition, Tsukuba, Japan, 1985)(特別博) |
テーマ | 人間・居住・環境と科学技術 |
開催期間 | 1985年3月17日~9月16日(184日間) |
開催地 | 茨城県筑波郡谷田部町御幸が丘(現つくば市御幸が丘) |
会場面積 | 102ヘクタール |
参加 | 48カ国、37国際機関、国内28企業・団体 |
総入場者数 | 20,334,727人 |
直接経費 | 約855億円 |
関連公共事業費 | 約4,409億円 |


良いところですわね。静かで。

ここは…、本当にのどかで、首都近郊の田園都市というのは良く分かった。
最寄り駅となる、つくばエキスプレスの万博記念公園駅から徒歩で科学万博記念公園へと向かったのですが…





そんなに長い距離ではないのだけど、ほとんど人ともすれ違わないし、ホントに着くのか不安になったわね。

何時でも道を歩けば大抵他人とすれ違う。ちょっと歩けばコンビニとかバス停がある。車が無くてもそれほど困らない。そーいう都内での生活感覚は通用しない、地方都市の住環境の常識を思い出した。
延々と広がる畑。旧万博会場のすぐそばで、おそらく40年前の光景とほとんど変わっていないのではないか…と思われます。


でも、つくばといえばJAXA(宇宙航空研究開発機構)の筑波宇宙センターがあるし、マジ「最先端科学の街」というイメージなんだけど。

そう、このつくば市は官主導で作られた巨大な研究学園都市。
この人工的な部分と変わらないのどかな農村風景とのギャップが科学万博、しいては日本での国際博覧会のパターンのような気もします。
つくば万博 主要関連事項の時系列(1960年代~1990年代)
年 | 筑波プロジェクト関連 | 首都機能移転関連 | 行政改革関連 |
---|---|---|---|
1963年 | 研究学園都市建設を閣議了解 | ||
1970年 | 筑波研究学園都市建設法 公布 | ||
1977年 | 第三次全国総合開発計画で「首都機能移転」が明記される | ||
1978年 | 科学技術庁にて科学万博構想が生まれる | ||
1981年 | 第二次臨時行政調査会(土光臨調)設置 | ||
1982年 | 科学万博 起工式 | ||
1983年 | 土光臨調が最終答申を提出 | ||
1985年 | 国際科学技術博覧会(つくば万博’85)開催 | 日本電信電話公社(NTT)、日本専売公社が民営化 | |
1987年 | 第四次全国総合開発計画で「遷都」が盛り込まれる | 日本国有鉄道(国鉄)が分割民営化 | |
1988年 | 多極分散型国土形成促進法 施行 | ||
1992年 | 国会等の移転に関する法律 施行 | ||
1999年 | 移転先候補地として「栃木・福島地域」「岐阜・愛知地域」を選定 |

もともと、1950年代には東京の一極集中を解消するための首都機能移転が政府内で検討され始め——

昭和30年代に、もうそんな話があったのね。
政府内では1961年、まず国立の学校や官庁を移転させる方針が決まり、1963年には筑波山麓に研究学園都市を建設させる事が閣議で周知される。

とは言え、いきなりつくばに移転しましょうと言われても。
地方分権、行政のスリム化、地方と東京の格差の解消、といった改革の数々は、ムダを省き、国の持続的成長を可能にするとともに、それによっての新たな経済圏誕生も期待出来る。

政治の言葉で言うなら、そりゃあつまり地方への利益誘導…。

茨城県は、当時の政権与党自民党の強い地域でもあったりする。
その首都機能移転の起爆剤とするべく、つくば研究学園都市の知名度アップの為、科学技術庁でつくばでの国際博覧会開催のプランが持ち上がる。

それでつくばの科学万博が開催されたのですか。

でも、万博協会の会長に土光敏夫氏が就いてるのは、行政改革の一環という意味合いもあるのかな。

土光敏夫
昭和を代表する実業家。「ミスター合理化」と呼ばれ、経営難に陥っていた石川島播磨重工業(IHI)や東芝を再建。第二次臨時行政調査会(臨調)会長としては「増税なき財政再建」の理念の下、数多くの行政改革の答申を行う。清廉な人柄で知られ、質素な生活を貫き「メザシの土光さん」として国民から親しまれた。

それもあるのかもしれないけど、当時の世論は現代の大阪・関西万博に対する批判と同様…。

『国の財政が逼迫する中、そんなカネのかかる大イベントをやってる場合か!』

という意見もあったらしい。
だから実直な人で、国民的人気もある財界人に舵取り役をやってもらおう、という思惑もあったみたい。

ふーむ。

やっぱり政治的な動機がなければ、国際博覧会なんて開かれないものなのでしょうか…。
つくば研究学園都市の振興が目的であるために、メインテーマは科学技術、「人間・居住・環境と科学技術」となり、同時に戦後日本の発展は技術革新によるイノベーションにある、という事実を再確認する場でもあった。
現在の万博記念公園の周辺は、企業の研究施設や集配センターなど大規模な建物ばかり。つくば市の中心部にはJAXAの宇宙センターがあるし、国の研究施設も数多い。


研究学園都市の機能を定着させる意味でのつくば万博の成果は、一定程度あったと言えるようにも見えました。
しかし万博閉幕後、日本はバブル景気に突入し、その後の『失われた三十年』の停滞期を経て産業の構造も変わってしまった。人口も減り、もはや技術や製造業頼みで国は成り立たず、インバウンドやコンテンツ産業、海外からの購買力や労働力に頼らざるを得ない。

統合型リゾートの起爆剤、という大阪・関西万博開催の動機が象徴的ではあるわね。

大型プロジェクトの起爆剤、という構造はつくば万博とほとんど一緒だ。

つまり首都機能移転からIR、という事が昭和から令和への時の流れ‥

首都機能移転の政策はその後頓挫してしまいました。
それを思うと、この場にかつて二千万もの人々が集った、そんな大イベント、大きな宴が行われたという事は、まるでおとぎ話のよう。

まさに日本の戦後復興の歩みと、その歴史に対する人々の信頼が結実した最後の光といえるのが、つくば科学万博であったような気もしました。
