映画『アリスとテレスのまぼろし工場』見ました【映画の雑感日記】
見て驚いたというか、「あるぇ~?」と思ったのは、ヒジョーに物語全体のトーンが暗く、しかもそれが解消されないというテーマ。
前作にあたる「さよならの朝に約束の花をかざろう」は当時リアルタイムで観ましたが、よく考えてみればあの作品も〝10代半ばの姿で成長が止まる一族〟が主役という、設定は相当変わってはいましたが、「愛」を語り、永遠の視点から人間の希望を見出そうとするパワーとカタルシスは作品全体にあった。今作はそのテーマをより細かい視点から掘り下げようとする作品と言えるのかもしれませんが…、かなり趣は違う。
崩壊や破滅が決定づけられている世界で、真の「愛」を知るという物語。それはそれで面白いとも思いますが…、しかしそういう舞台設定なので主人公たちには世界を変える動機も目的も無く、それを盛り上げるため無理に無理を重ねてストーリー展開を作っているカンジ。物語の流れはスムーズではない上に強引。一体何のためにいるのかよくわからないキャラがいたり、キャラの行動もよく理解できなかったり。
ただ、テーマは深い…ようにも見えました。
地方都市が舞台、という設定は監督の岡田麿里さんが脚本を担当した『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』から『心が叫びたがってるんだ。』『空の青さを知る人よ』につづく伝統のようなもの。特に「あの花」「ここさけ」の舞台秩父は岡田麿里さんの青春時代の体験と密接に結びついているものであることは『学校へ行けなかった私が「あの花」「ここさけ」を書くまで』でも語られている。
閉鎖性のある地方都市、そのなかで「外の世界」へ大人になりたいと願う若者、というモチーフがこういう世界観になるのか~…と、いう感もあります。
「愛」という解釈も深そう。タイトルにある「アリス」も「テレス」も、そんなキャラは出て来ない。
結局のところ、人間を束縛したり抑圧したりするものは環境ではなく…。『目覚める』とは外の世界へ行く事でもなければ現実に生きるという事でもなく…。
すべては人間の生命・愛が決める事で、愛とは痛みでもありスウィ~トでもあり嫌悪でもあり希望でもあり…、と、いうふうにも解釈しました。
哲学の領域にも踏み込んでいるような「愛」の解釈、しかしストーリーはやや取っ付きづらい。
トータルで見れば、娯楽作品として難易度が高いというかなんというか、やっぱり「あれー?」という感じは残ります。
『アリスとテレスのまぼろし工場』あらすじ
菊入正宗14歳。彼は仲間達と、その日もいつものように過ごしていた。すると窓から見える製鉄所が突然爆発し、空にひび割れができ、しばらくすると何事もなかったように元に戻った。しかし、元通りではなかった。この町から外に出る道は全て塞がれ、さらに時までも止まり、永遠の冬に閉じ込められてしまったのだった。
公式ホームページ〝Story〟より
町の住人たちは、「このまま何も変えなければいつか元に戻れる」と信じ、今の自分を忘れないように〈自分確認票〉の提出を義務とする。そこには、住所、氏名、年齢だけでなく、髪型、趣味、好きな人、嫌いな人までもが明記されていた。
正宗は、将来の夢も捨て、恋する気持ちにも蓋をし、退屈な日常を過ごすようになる。
ある日、自分確認票の〝嫌いな人〟の欄に書き込んでいる同級生の佐上睦実から、「退屈、根こそぎ吹っ飛んでっちゃうようなの、見せてあげようか?」と持ち掛けられる。
参考文献
学校へ行けなかった私が「あの花」「ここさけ」を書くまで
さよならの朝に約束の花をかざろう
『さよならの朝に約束の花をかざろう』あらすじ
公式ホームページより
縦糸は流れ行く月日。横糸は人のなりわい。
人里離れた土地に住み、ヒビオルと呼ばれる布に日々の出来事を織り込みながら静かに暮らすイオルフの民。
10代半ばで外見の成長が止まり数百年の寿命を持つ彼らは、“別れの一族”と呼ばれ、生ける伝説とされていた。
両親のいないイオルフの少女マキアは、仲間に囲まれた穏やかな日々を過ごしながらも、どこかで“ひとりぼっち”を感じていた。