注意:ネタバレあります
藤子・F・不二雄SF短編<PERFECT版>(1)ミノタウロスの皿 に収録されている「ボノム=底抜けさん=」の感想。
5「ボノム=底抜けさん=」の感想
ビッグコミック1970年10月10日号に掲載された作品。
どんなに虐げられても怒らない。ナゾのお人よしサラリーマン仁吉さん孤高の哲学とは。
掲載誌はビッグコミックなので、『カイケツ小池さん』同様主人公はサラリーマン。
サラリーマン生活や人生の中ではこんな嫌なこともあるかもなぁ…というあるある感から、「んな事あるわけない!」と言いたくなるようなマンガ的な誇張・SF的テーマにつながっていく展開はさすがF作品。
サラリーマンの仁吉(ひとよし)さんが後輩の新人社員に誘われておでんの屋台に立ち寄るところから物語が始まる。
仁吉さんはとっても「イイ人」。他人のどんな要求も嫌な顔せず受け入れちゃう。そして怒りもしない。
社員食堂の食券をブン盗られても、
残業を押し付けられても、
それが、仁吉さんをまったく人として相手にされていないからだとわかっても平然としている。
新人くんは、仁吉さんに対するまわりの人間の態度・仁吉さんの態度にも我慢ならず、仁吉さんをもっとよく知るためにお酒に誘ったのでした。
しかし、おでん屋さんの大将はそんな仁吉さんを「ずば抜けて強い人」と評する。
それを証明しているのか否定しているのか、仁吉さんのお人よしぶりの実態はどんどんエスカレート。
夜のご職業の女性とヒモさんに絡まれボコボコにされても、
不倫の濡れ衣を着せられてボコボコにされても、
全く怒らない。恨まない。
一体何が仁吉さんをそうさせるのか大いにナゾが深まったところで、酔いが回った仁吉さんがついに本音を語り始める。
それは「遺伝子」。
遺伝子によって作り出された性質と、それに対する縁となる外界の環境によって人間の行動は決まる。人間は所詮遺伝子と環境によってあやつられる人形にすぎない。
しょせん人間はそんなもの。そんなあやつり人形の所業に怒っていてはしょうがない…というのが仁吉さんの哲学であった。
そんな空論ではこの世の不幸を証明できないと、あの手この手で皆挑発するものの仁吉さんは動じない。それどころか、さらなるお人よしぶりも判明して…
あまりの徹底ぶりに、ついにはキリストの再来ということになり崇め奉られる仁吉さん。
仁吉さんの受難はイエス・キリストのイメージでもあるのでしょうか、キリスト教的な隣人愛、教祖というイメージから見れば、ここでは絶対的な神の存在が遺伝子に置き換わっている。こういう発想は実にSF的。
利己的遺伝子論とかの用語は聞いたことがありますが、それらの社会生物学が注目されるのは70年代の半ば頃らしいですから1970年掲載のこの作品で遺伝子がテーマになっているのは結構スゴイ事かも。
遺伝子=神とするなら、神は各個人に宿った個別のもの。これは多神教的で日本人ならではの発想でしょうか。仁吉さんのポーズは大仏の格好だし。
ただ、日本人の発想で見ると仁吉さんの隣人愛は遺伝子に依存し、自分で全く善悪を判断せず主体性がないようにも見えますが、一神教の世界観ではこれが正しいみたい。
社会学者の橋爪大三郎さんは著書『ふしぎなキリスト教』のなかでこう述べている。
隣人愛のいちばん大事な点は、「裁くな」ということです。人が人を裁くな。なぜかと言うと、人を裁くのは神だからです。人は、神に裁かれないように、気をつけていればいい。神に裁かれないためには、自分がほかの人を裁かないということです。愛の中身はこれなんです。
講談社刊 講談社現代新書 橋爪大三郎・大澤真幸 著 『ふしぎなキリスト教』より
補足するなら、ユダヤ教では律法によって姦淫してはならないとか、他人の財産を欲してはならないとか道徳的規範などが決められていたが、それがキリスト教で発展して出来た概念が「隣人愛」である、という事のようです。
ユダヤ教では律法が人を裁く方便として悪用されるきらいがあったが、キリスト教においてそれらを無くし、神と隣人を愛することが唯一の律法とした。
新約聖書の『復讐するは我にあり』という言葉に代表されるように、人間の感情だけで他人を断罪してはならない。神と人間の関係を正しく保つために必要な律法がすなわち「愛」である…。
キリスト教徒でもない、ただの人間である私には「なるほど~」と判断するしかないのですが、しかし仁吉さんの他人を恨まない、裁かないポリシーはまさにキリスト教的『愛』。
ラストは「心の支え」だとする最愛の妻に裏切られてさえも、なお変わらず遺伝子を称えようとする仁吉さんの姿に、新人くんがドン引きしているシーンで終わる。
この仁吉さんの妻の不貞を他者が断罪することは出来ないし、そのために神による宗教が発明されたとも言える。
一神教的立場からすると仁吉さんの態度は神に対する峻厳な姿とも言えるのかも知れませんけど、ハタから見ていて何だか「それでいいのか」と言いたくなるモヤモヤ感は何なのか…。
仁吉さん明らかに動揺してるし、初めて見せた人間的リアクションにも見えるし。
このモヤモヤ、これこそが日本人としての『沼』、感性なのでしょうか。
なんだか遠藤周作の『沈黙』を思い出してしまいました。
島原の乱が鎮圧されて間もないころ、キリシタン禁制の厳しい日本に潜入したポルトガル人司祭ロドリゴは、日本人信徒たちに加えられる残忍な拷問と悲惨な殉教のうめき声に接して苦悩し、ついに背教の淵に立たされる……。
神の存在、背教の心理、西洋と日本の思想的断絶など、キリスト信仰の根源的な問題を衝き、〈神の沈黙〉という永遠の主題に切実な問いを投げかける長編。
Amazon.co.jp 商品説明より抜粋
江戸幕府のキリシタン弾圧によって棄教させられたイエズス会司祭フェレイラが若き弟子ロドリゴに言った言葉
「この国は沼地だ。やがてお前にもわかるだろうな。この国は考えていたより、もっと怖ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」
「彼等が信じていたのは基督教の神ではない。日本人は今日まで」フェレイラは自信をもって断言するように一語一語に力をこめて、はっきり言った。「神の概念はもたなかったし、これからももてないだろう」
新潮文庫 遠藤周作 著『沈黙』より
神の沈黙と仁吉さんの饒舌。人間の弱さと強さ。この対比を日本人としてどう捉えるのか。それがこの作品の面白味、楽しみ方のような気もします。
引用画像はすべて「藤子・F・不二雄SF短編<PERFECT版>」より
「藤子・F・不二雄SF短編<PERFECT版>(1)ミノタウロスの皿」について
藤子・F・不二雄のSF短編112話を全8巻に完全収録した“PERFECT版”が登場! 鋭い風刺精神を存分に発揮した「藤子美学の世界」にどっぷり浸かれる作品集!
Amazon.co.jp商品説明より
藤子・F・不二雄氏による短編の総集編。第一巻は1968年の「少女コミック」9月号に掲載された『スーパーさん』から1973年「ビッグコミック」4月10日号に掲載された『イヤなイヤなイヤな奴』までを年代順に収録。
巻末には藤子・F・不二雄氏の長女である藤本匡美さんによるエッセイ「こっそり愛読した父の作品」が掲載されています。
タイトル | 雑誌名 | 年月号 |
---|---|---|
スーパーさん | 少女コミック | 1968年9月号 |
ミノタウロスの皿 | ビッグコミック | 1969年10月10日号 |
ぼくの口ボット | 子供の光 | 1970年1月号 |
カイケツ小池さん | ビッグコミック | 1970年4月25日号 |
ボノム=底ぬけさん= | ビッグコミック | 1970年10月10日号 |
ドジ田ドジ郎の幸運 | SFマガジン | 1970年11月 増刊号 |
じじぬき | ビッグコミック | 1970年12月25日号 |
ヒョンヒョロ | SFマガジン | 1971年10月 増刊号 |
自分会議 | SFマガジン | 1972年2月号 |
わが子・スーパーマン | ビッグコミック | 1972年3月10日号 |
気楽に殺ろうよ | ビッグコミック | 1972年5月10日号 |
アチタが見える | ビッグコミック | 1972年8月25日号 |
換身 | SFマガジン | 1972年9月 増刊号 |
劇画・オバQ | ビッグコミック | 1973年2月25日号 |
イヤなイヤなイヤな奴 | ビッグコミック | 1973年4月10日号 |