注意:若干ネタバレあります
藤子・F・不二雄SF短編<PERFECT版>(1)ミノタウロスの皿 に収録されている「ドジ田ドジ朗の幸運」の感想。
6「ドジ田ドジ朗の幸運」の感想
類い稀なアンラッキーの持ち主ドジ郎に訪れた幸運とは。
「SFマガジン」1970年11月増刊号に掲載された作品。
これまでの短編は全て漫画誌での掲載でしたが、この作品は日本SFの草分け的専門誌「SFマガジン」の掲載作品。
それゆえに、内容に社会的なテーマはそれほど無し。科学的な用語がふんだんに登場し、それと人間の人生を重ね合わせ、コミカルに、しかし科学で人間の人生に迫るお話。
日本SFと藤子F作品に関する私見&あらすじ
私のSFのイメージとして…、主に未来という大時代を舞台として、科学的要素を全面に押し出しド派手に物語が進行するのが欧米のSF。一方、主に現代や近未来を舞台としてサイエンスの要素は必要以上にはあまり出さず、言わば私小説のごとく日常や人間を中心とした表現で本質に迫ろうとしたのが日本のSF。
藤子F先生のSF諸作品は「少し不思議」と、ご自身で述べているキーワードに代表されるように、伝統的な日本のSFそのもの。
この作品は量子論のようなサイエンスの要素が大テーマとして保守的なSFっぽさを演出する一方で、それらは全てドジ田ドジ郎の人生、日常に集約されて行く。
まさに日本SFのお手本のような作品ではないかと思います。
ドジ田ドジ郎はあらゆる不運をその身に背負った男。
麻雀では必ず振り込み、タクシーを拾おうとすれば轢かれ、横断歩道に来れば必ず信号が赤になる。
そんなドジ田の上に時空の歪みから落ちて来たのが統計局偶然係長ゴンスケさん。
ゴンスケは、宇宙間のあらゆる現象の安定性を保つのが仕事という。
ドジ田の驚異的な運の偏りを知ったゴンスケは、「偶然」を操作して、これまでのツキのなさの埋め合わせをドジ田に約束するのだった…。
ここから、驚異的なまでのラッキーマンとなったドジ田の生活がカタルシスをもって描かれる、という比較的平易なストーリーではあるのですが、サイエンス的な観点で見ると面白い。
ゴンスケは度々「偶然」というキーワードを口にしているのですが…。
これは統計学や量子論の事を言っているのでしょうね。おそらく。
量子論の歴史からゴンスケの言ってる事を考える
私は宇宙物理学者の佐藤勝彦さん監修の本『「量子論」を楽しむ本』が好きでして…。今でもたまに読み返したりします。
この本の内容を要約してゴンスケの言う「偶然」の意味を探ってみますと…。
波で伝わる電磁波の一種である事が知られていた光に、波と同時に一個の粒子としての性質も持ち合わせているのではないかと考えたのがアインシュタインの「光量子仮説」。
光が「粒子」だと考えると、光が金属に当たると電子が飛び出す「光電効果」をうまく説明出来るのだとか。
光が粒子と波の性質を併せ持つならば、素粒子である電子も粒子でありながら波動の性質も持っているのではないかと考え、物質の持つ波動を「物質波」(ド・ブロイ波とも呼ばれる)と名付けたのがフランスの物理学者ド・ブロイ。
何故ド・ブロイが物質波という発想に至ったのかというと、古典物理学では説明出来なかった、電子が原子核の回りを一定の軌道で回り続ける運動(ボーアの量子条件)を、電子が波であると考えると上手く説明できるから………なのだそうです。
このド・ブロイの物質波に触発されて、「物質がどんな「形」の波を持ち、その波が時間の経過とともにどのように伝わっていくのかが計算」できる、「シュレーディンガー方程式」を考え出したのが、オーストリアの物理学者エルヴィン・シュレーディンガー(「シュレーディンガーの猫」のパラドックスが有名)。
これにより「量子力学」が誕生し、物理学史の一大事件となったのですが…、しかし。
波の状態になった電子というものはこれまで観測された事はない。そもそも電子は一個当たりの質量も割り出され、それ以上分割できない最小の粒子であることがわかっている紛れもない素粒子。それが波動の性質も併せ持つと言われても、それはどんな波なのか、一般の我々の感覚では全くイメージ出来ない。
実はド・ブロイもシュレーディンガーも波動関数や物質波が物理的に何を表しているのかはうまく説明出来なかったのだとか。
つまり、この世の誰も物質波の正体は理解出来なかった。
しかし、実験によって電子が波動の特徴を示す事は確認されていたし(電子の二重スリット実験&デイヴィソン=ガーマーの実験)、電子の物理現象を波として説明すると上手く辻褄があうということは、電子に波動性がある証拠ともいえる。
ところが、波となった電子・粒子は測定されたことは無い。観測すれば必ず粒子としての電子がそこにある。
じゃあ、一体何なのか……。この八方ふさがりの状態に風穴を開けたのがドイツの物理学者マックス・ボルン。
波動関数の実数部分は図示すると正弦波の波としてあらわれる。この波動関数の絶対値を2乗したものは、電子がその場所で発見される確率に比例するとボルンは考えた。
横軸は場所をあらわし、縦軸は波動関数の大きさ、これがその場で電子が発見される確率をあらわしている。
つまり、波動関数の波が物理的に何を示しているのかは考えず、一点の粒子としての電子がどの場で観測されるかの確率をあらわしているのだと「解釈」を変えたということのようです。
これが「波動関数の確率解釈」(ボルンの規則とも言う)と呼ばれるもので、ゴンスケの言う「偶然」のニュアンスはここから導き出されるものです。
それが、確率解釈をさらに推し進めるべく、デンマークのニールス・ボーアを始めとするコペンハーゲンの物理学者さんたちが提唱した「コペンハーゲン解釈」というもので…。
すなわち、電子の波動性が観測されず必ずどこかの一点で粒子の電子が測定されるのは、我々が観測していない時だけ電子は波として広がっていて、我々が観測すると電子の波は収縮して一点の粒子となる、らしいです………。
その考え方を説明しましょう。まずは電子の波が収縮する前の、波が広がっている状態について考えます。しかし私たちは波のように広がっている電子というものを見たことがありません。そこでボーアたちは「我々が見ていないときだけ、電子は波のように広がっている」と考えました。
そしてこのとき、電子は「重ね合わせ」の状態にあると見なされます。どういうことかと言うと、電子の波が広がっているときには、電子は「ある場所にいる状態」と「別の場所にいる状態」が重ね合わさっている(共存しているともいいます)と考えるのです。
ただしこれは「電子はA点とB点の両方に同時にいる」ということではありません。また「電子はA点かB点のどちらか一方にいるのだが、どちらにいるかはわからない、または確率的にしか言えない」のとも違います。 「一個の電子がA点にいる」状態と「同じ一個の電子がB点にいる」状態が、同一の電子の中で重なり合って(共存して)いるのです。
何を言っているのやら、イメージするのが難しいのですが、私たちが見ていないときに電子は「重なり合っている」状態の波動となっていて、私たちが観測すると波動はキュッと収縮してある一点で発見される。発見される場所は「波動関数の確率解釈」によって確率的に決まる…、のだそうです。
ただし、電子の位置が確率的に決まるとは「電子の位置はどこか一ヶ所に決まっているが、私たちはその場所を確率的にしか推定できない」という意味ではありません。電子の位置は、まるでサイコロを振ってその日に応じて電子の発見場所が決まるように、確率的に(いわば偶然の要素で)決定されるのだと、ボーアたちは考えたのです。
『「量子論」を楽しむ本 ミクロの世界から宇宙まで最先端物理学が図解でわかる!』より
「神」も「仏」もいない偶然の世界
「偶然」で決まる。
この「コペンハーゲン解釈」には、量子論の先駆けとなったアインシュタインや、量子力学の祖であるシュレーディンガーも猛反発したといいます。
科学者たちは「宇宙の 法則」ともいうべき真理を知り尽くし極めれば、その法則に従って未来に起こることも全て予測する事が出来ると考えるのが、矜持であり探求のモチベーションなのだとか。
ボーアの言っている事は、この世界を貫く真理・法則(言い換えれば神)というものは存在せず、すべて偶然で決まっているに過ぎない。極端な話、誰かがもし、不幸にも何かの事故や災害で亡くなったとしても、その事象にはなんらの意義も必然性も存在しない、確率的にたまたまそうなっただけだと言っているに等しい。それはこれまでの科学的世界観をも全否定するものだったのであります。
だからアインシュタインも、シュレーディンガーでさえも量子論のアンチとなり、「EPRパラドックス」や「シュレーディンガーの猫」思考実験などを通じて、生涯量子論を批判し続けたのでした。
ただ逆に考えれば、ゴンスケは「偶然」を操作している。
この世界、そして人間の運命は「決定論」的に決まっているのではなく、「確率論」として変革することが出来る、人間はその力を持っていると言っているようにも見えます。
こういう観点で考えてみると、この作品に扱われている内容は相当難解かも。
で、あっても見た目は非常に平易でわかりやすい。
藤子・F・不二雄短編のエッセンスが詰まった、違う意味で「少し不思議」な作品だと思います。
『「量子論」を楽しむ本』について
この記事での要約は非常にかいつまんでのものなので、相当理解しづらいかと思いますが『「量子論」を楽しむ本』自体は非常にわかりやすい本です。数式が出てもそれの意味がきちんと解説されているので、私のような数学が全くダメな人間でもすんなり理解できる。
何よりも、物理学の世界に起こるナゾや難問を量子論が奇想天外な理論で解決(?)していった歴史は、読んでいてすごくワクワクします。
実はこの後、シュレディンガー方程式を解析することによって波動の収縮は起こりえない事が証明されます。
では、「重ね合わせ」をどう説明するのかという難問を解決するために編み出されたのが、22年にアニメ映画化された小説『僕が愛したすべての君へ』『君を愛したひとりの僕へ』の題材となっている「多世界解釈」なのであります。
SF理解の解説書としても必携の書かもしれないです。
引用画像はすべて「藤子・F・不二雄SF短編<PERFECT版>」より
「藤子・F・不二雄SF短編<PERFECT版>(1)ミノタウロスの皿」について
藤子・F・不二雄のSF短編112話を全8巻に完全収録した“PERFECT版”が登場! 鋭い風刺精神を存分に発揮した「藤子美学の世界」にどっぷり浸かれる作品集!
Amazon.co.jp商品説明より
藤子・F・不二雄氏による短編の総集編。第一巻は1968年の「少女コミック」9月号に掲載された『スーパーさん』から1973年「ビッグコミック」4月10日号に掲載された『イヤなイヤなイヤな奴』までを年代順に収録。
巻末には藤子・F・不二雄氏の長女である藤本匡美さんによるエッセイ「こっそり愛読した父の作品」が掲載されています。
タイトル | 雑誌名 | 年月号 |
---|---|---|
スーパーさん | 少女コミック | 1968年9月号 |
ミノタウロスの皿 | ビッグコミック | 1969年10月10日号 |
ぼくの口ボット | 子供の光 | 1970年1月号 |
カイケツ小池さん | ビッグコミック | 1970年4月25日号 |
ボノム=底ぬけさん= | ビッグコミック | 1970年10月10日号 |
ドジ田ドジ郎の幸運 | SFマガジン | 1970年11月 増刊号 |
じじぬき | ビッグコミック | 1970年12月25日号 |
ヒョンヒョロ | SFマガジン | 1971年10月 増刊号 |
自分会議 | SFマガジン | 1972年2月号 |
わが子・スーパーマン | ビッグコミック | 1972年3月10日号 |
気楽に殺ろうよ | ビッグコミック | 1972年5月10日号 |
アチタが見える | ビッグコミック | 1972年8月25日号 |
換身 | SFマガジン | 1972年9月 増刊号 |
劇画・オバQ | ビッグコミック | 1973年2月25日号 |
イヤなイヤなイヤな奴 | ビッグコミック | 1973年4月10日号 |